2019年5月26日日曜日

中谷宇吉郎の下宿生活

数日前の北海道新聞に、『「雪の化石」時代超え輝く/札幌の女性、北大に寄贈/「雪博士」故中谷教授50年代製作』と題した、小華和靖(こはなわ やすし)記者による記事(写真3点つき)が掲載された(注1)。概略、次のような内容である。
中谷宇吉郎は米国から帰国した1954年ごろに、札幌市内の小林國子さん宅の筋向かいに下宿するようになった。小林さんは華道を教えており、宇吉郎の下宿先から頼まれて博士の部屋に時折花を生けに行くようになった。そしてある日、お礼にと「雪の化石」(雪の結晶レプリカ)や色紙などを贈られた。小林さんは、それら(雪の化石、色紙2枚、書1点)を昨年、「後世に残したい」として北海道大学に寄贈した。
この記事に出てくる中谷の「下宿」について、いくつか関連することがらを書きとめておきたい。


中谷は1951年秋にSIPRE(雪氷永久凍土研究所)から招聘され、52年6月に米国シカゴ郊外へ一家揃って住まいを移した。そして1954年8月末に帰国する。中谷一家は1948年に東京原宿に住居を建ててそこに移り住み、宇吉郎は札幌に「単身赴任」していたから、54年夏に帰国したとき、札幌に住む家はなかった(注2)

そのとき「下宿」先を探してくれたのは、北海道大学理学部の同僚 古市二郎だった。
私[古市二郎]は昭和29年[1954年]の夏に、米国から札幌に帰ってこられてからの先生の宿所のお世話をしなくてはならない仕儀になったのであるが、幸に北海道の名家である伊達家におひきうけしていただいた(注3)
伊達家、小林家、古市家の位置関係(注12)
小華和氏によると、古市の妻と伊達夫人とが懇意だった関係で伊達家にこの話があり、伊達家では二男が使っていた部屋を中谷の下宿用に提供したという。

古市が言うには、中谷は「何でも喜ばれる先生ではあったが、この宿所は、ことのほか気に入られたらしく、それからお亡くなりになるまでずっと居を移されなかった(注4)」。

そして小華和氏によると、茶道を教えていた伊達夫人と華道を教えていた小林國子さんとの間にも親交があり、花を生けてほしいという宇吉郎の希望が伊達夫人を介して小林さんに伝えられ、小林さんが宇吉郎の部屋に花を生けに行くようになった、というわけである。

さて古市二郎(1909-1967)は、中谷が教授を務めた北海道帝国大学理学部物理学科の卒業生(二期生)である。1931年に第一高等学校を卒業し、中谷がいるからというので北大理学部物理学科に入学する。しかし3年生になり専攻を決めるときには「止むを得ない事情から」分光学を専攻する。担当教授は中村儀三郎であった。しかしそれでも中谷の研究室には自由に出入りさせてもらい、スキーも一緒に楽しむなど、親しく交流した(注5)

ところが中村儀三郎が1934年3月(古市の卒業直前)に病没し、旅順工科大学から堀健夫が1935年に後任として着任した。物理学科を卒業した古市は堀健夫の助手となり、ついで助教授となる。そして戦後の1947年には、物理学科応用物理学講座の教授となった。

古市二郎の妻ゆきえ(旧姓 横田)もまた、北海道帝国大学理学部物理学科の卒業生である。横田は日本女子大学家政学部第二類を1935年3月に卒業し、北大理学部物理学科の聴講生を経て、翌36年4月に物理学科に入学する。3年目(1939年4月)から分光学を専攻し、堀健夫教授に師事した。そして助教授時代の古市二郎と結婚する(注6)

結婚後の古市ゆきえは、札幌市内にいた同窓生に「一緒に高校生用の教科書を作りましょう」と勧誘したり、札幌市内の北星学園女子短期大学(1953~66年)で、あるいは藤女子短期大学で(1966~69年、生活科学担当)非常勤講師を務めたりした(注7)

ゆきえは後年、大学3年生の頃に「中谷先生の様々な形の雪の結晶を作る実験を見せて頂いたこと」が印象的だった(注8)と学生時代を回想しているから、中谷の影響も強く受けていたと思われる。

古市夫妻の子息によると、ゆきえは「日本女子大で家政科に在籍したせいか、抽象的ではなく日常的におこる具体的な物理現象を題材にし、読む人(女子学生)が親近感を持てる物理の教科書を作りたいとは申しておりました(注9)」とのことであるが、科学の題材をわかりやすく語る中谷宇吉郎からの感化も重なっているのではなかろうか。

他方 宇吉郎のほうでも、二郎を「二郎ちゃん、二郎ちゃん」と呼んで可愛がり、「6月の夕暮など大通りから山鼻へと初夏を満喫し乍ら共に歩いて帰ったこと」も度々あったという。古市家は、宇吉郎が下宿する伊達家から「一、二丁の近くに在った」のである。そして古市二郎は「家内ともども先生と時を共にする機会に多く恵まれ、直接に多大の啓発を受ける幸せを得」ることになる(注10)

宇吉郎は古市家をしばしば訪れ、「夕食を共にすることも多かった。そんな折々に、一枚か二枚ずつ[古市家にある品々を写生し、画帳に]描き入れて行った」という。その画帳は、古市夫人の名前「ゆりえ」に因んで「百花合流帖」と題された(注11)。そこに描かれた絵は『中谷宇吉郎画集』に収録されている。

なお古市二郎は、教養部長や理学部長を歴任したあと、1966年9月に第8代学長に選出される。学長選挙では、堀内寿郎名誉教授との間で決選投票にまでもつれ込み、1票差で当選したのだった。ところが翌67年2月22日、胃がんの肝臓転移により没してしまう。後任の学長には堀内寿郎が就いた。

---

注1)北海道新聞夕刊、2019年5月23日、p.1.
注2)中谷一家は1938年に南4条西16丁目に自宅を新築し、敗戦後もしばらくそこに住んでいた。しかしその家も、1948年から52年ごろまでのどこかの時点で、何らかの形で処分していたものと思われる。
注3)古市二郎「よき時代の先生と学生―中谷先生のある思い出―」『北大季刊』第23号、pp.119-126. 引用はp.124より。
注4)古市二郎、前掲、p.124.
注5)古市二郎、前掲、pp.119-124.
注6)山本美穂子「北海道帝国大学理学部へ進学した日本女子大学校卒業生たち」『北海道大学大学文書館年報』第7号(2012年)、pp.42-58.
注7)山本美穂子、前掲。『北星学園八十年誌稿』1967年、付録p.43.
注8)古市ゆりえ「皆既日食」『北大理学部五十年史』1980年、pp.300-1、引用はp.301より。
注9)山本美穂子、前掲、引用はpp.47-8より。
注10)古市二郎、前掲。古市一家と宇吉郎との親交については、次の追悼文も(伝聞にもとづくものではあるが)言及している。金子元三「古市二郎先生を悼む」『日本物理学会誌』第22巻第7号、pp.456-7、三井利夫「古市二郎先生のおもいで」前掲誌、pp.457-8.
注11)山下一郎「中谷宇吉郎の絵画」(『中谷宇吉郎画集』中央公論美術出版、1979年)所収。引用はpp.48-49より。
注12)西尾新吾『札幌市卓上案内 8 山鼻版』北海道都市案内刊行会、1950年より(一部加工)。

2018年2月20日火曜日

田中舘愛橘の初めての書『四桁の対数表』

田中舘愛橘が世に出した最初の書は『四桁の対数表:付けたり いろいろの定数および公式』である。この著作は現在、国立国会図書館のウエブサイトで公開されており、世界中どこからでも無料で閲覧でき、プリントアウトもできる。

同書の奥付(右図)に「明治19年1月25日版権免許」とあるから、「30年間専売の権」を得ていたことがわかる。明治9年に改正された出版条例により、内務省に願い出て「版権免許証」を公布してもらえばこの権利が保障される、という制度になっていた。

出版条例は明治20年にも改正され、このときには印刷の年月日や発行者・印刷者の住所氏名などを明記することが義務づけられた。また著書や図画を発行できるのは、それらの販売を業とする者に限るとされた。ただし例外として、著作者またはその相続者が発行者を兼ねることも認めていた。田中舘はこの例外規定に基づいて発行者となり、実際の販売は敬業社(注)に任せたのであろう。

愛橘の『四桁の対数表』には、y=logxの式において、xに0から0.1, 0.2 と0.1刻みで数値を代入していったときのyの値が、小数点以下4桁まで、表形式で示されている。販売を担当した敬業社の明治27年の目録によると、長らく品切れだったので「大いに訂正増補し精密懇切に閲正」したうえで再版されたものだという。定価は25銭である。

『四桁の対数表』は、書名(右図)はもちろん本文も(とはいっても、ほとんどが数値を並べた表であり、文章はごくわずかなのだが)すべてローマ字で書かれている。興味深いことに、自分の名前を TANAKADATE AIKITU と書く一方で、公式をKoshikiと書くなど後のヘボン式の表記法が混在している。またアルコールをArkohor、ガラスを Garas(Garasuでなく)と表記するなど外国語表記の痕跡が残ってもいる。

明治19年ともなれば、対数表自体はすでに何種類かの書が海外からもたらされ、その邦訳も出ていた。愛橘の対数表はそれらを転載したものであり、表そのものにオリジナリティはない。彼の独自性は、実用的な付録を付け加えたという点に求めるべきであろう。「付けたり」として、ヤードポンド法・尺貫法・メートル法の間での換算係数や、各種物質の比重や熱膨張率、あるいは光速や音速などの定数、さらには三角関数や微積分の簡単な公式などが所狭しと収められている。

本書の初版が世に出た明治19年は、帝国大学令が公布されて東京大学が帝国大学となった年であり、愛橘は助教授として地球物理学の研究(特に地磁気の測定)に勤しんでいた。その研究には数表や定数、公式などが必需であったから、それらを一書にまとめておけば自らの研究に好都合であったろう。そしてその書は「物理化学その他応用学術」に従事する者あるいは「海陸軍将校諸彦」(敬業社の「目録」にある宣伝文より)にとっても有用である。そこで『四桁の対数表』を出版しよう、と愛橘は考えたのであろう。

------
注) 敬業社は当時、中学校や師範学校、各種専門学校などの教科書や参考書(分野は、自然科学だけでなく歴史や修身倫理、商業簿記、政治法律経済、文学、辞書、芸術などにも及ぶ)を出版するとともに、学校教育用に動植物や鉱物の標本なども取り扱う、大手の出版社であった。

上の文章は、『田中舘愛橘顕彰会会報 愛橘通信』第2号(2018年1月1日発行)に寄せた文章である(ただし、ごく一部、改変)。


2018年2月10日土曜日

記録映画「北海道に於ける稲熱病防除」と映像「伊藤誠哉氏に文化功労賞」の解題

北海道大学に「北海道に於ける稲熱病防除」という映画と、「伊藤誠哉氏に文化功労賞」と題された映像が残っている。前者は1937年ごろに製作されたもの、後者は1959~62年ごろに撮影・編集されたものと思われるが、ともに無声であるため、内容がよくわからないし、その価値も理解できない。

そこで、これら二つの映像作品の解題を試みて見た。その概要を、きょう、大学の総合博物館で開催される土曜市民セミナーで報告するとともに、文章化したものもここに掲載しておく。まだ暫定版であるが、きょうのセミナーで、参加者の皆さんから頂けるであろう質問やコメントをふまえて、完成させる予定である。

記録映画「北海道に於ける稲熱病防除」と映像「伊藤誠哉氏に文化功労賞」の解題(暫定版)

2018年2月20日追記
2月10日付の暫定版を改訂した完成版を公開します(下のリンクをクリックしてください)。
記録映画「北海道に於ける稲熱病防除」と映像「伊藤誠哉氏に文化功労賞」の解題

2018年2月22日追記
完成版をHUSCAP(北海道大学学術成果コレクション)に登録してもらいました。
このリンク先からダウンロードしてください。


2017年10月18日水曜日

『「軍事研究」の戦後史』への、訂正と補足 

拙著『「軍事研究」の戦後史』の読者の方から、第5章の参考文献の一部に誤りがあるとの指摘を頂いた。確認したところ、たしかに誤りがあり、また追加もしたほうがよいと考えたので、次のように訂正したい。p.190(の後ろから2行目)から p.192 の箇所である。

本文
これに対し、研究チームのリーダーであり論文の筆頭著者でもある河岡は、こう反論した(17a)。悪用のリスクを…
米厚生省の勧告に法的拘束力があるわけではなかった。しかし河岡を含むインフルエンザ研究者たちは、翌年の1月20日、60日間の研究モラトリアムを宣言した(17b)。NSABBが、かつての…モラトリアムを提言していた(17c)、それに応えたのである(18)。

河岡らの論文は、5月にオンラインで、6月に雑誌上で公開された。他方、フーシエらの論文も6月に『サイエンス』誌上に掲載された(20)。

17a) Kawaoka, Y., "H5N1: Flu transmission work is urgent", Nature, 482, 155 (09 February 2012; published online 25 January 2012).
17b) Fouchier, R. Garcia-Sastre, A., Kawaoka, Y. et al., "Pause on Avian Flu Transmission Research", Science, 335(6067), 400 (27 Jan 2012).
17c) NIH, "NIH Statement on H5N1", January 19, 2012, https://www.nih.gov/about-nih/who-we-are/nih-director/statements/nih-statement-h5n1.
20) M. Imai et al., "Flu transmission work is urgent", Nature, 482(9 February 2012), 155. S. Herfst et al., ....
取り消し線の箇所を、以下に差し替え
"Experimental adaptation of an influenza H5 HA confers respiratory droplet transmission to a reassortant H5 HA/H1N1 virus in ferrets", Nature, 486 (21 June 2012), 420.

ご指摘下さった読者の方にお礼を申し上げたい。

これとは別に、自分で気づいていた誤りもあるので、この機会にあわせて訂正したい。

p.21, うしろから8行目
学士院会館の講堂 → 日本学士院に隣接する科学博物館の講堂
p.39, うしろから6行目
「形式、内容ともにそなわった「軍事研究」にほかならない → 「形式、内容ともにそなわった「軍事研究」」にほかならない
p.152, 5行目
流行を抑え込むことに → 抑え込むことに (「流行を」を削除)
p.203, うしろから8行目
ジェイコブソン → ジェイコブセン
p.247, 5行目
国防省 → 国防総省
p.274, 注26, 28, 30/ p.280, 注30/ p.284, 注24
A. Jacobson → A. Jacobsen
索引のp.2
ジェイコブソン(Jacobson, Annie)→ ジェイコブセン(Jacobsen, Annie)
なお、本書で参照した Jacobsen の著書 Pentagon's Brain は、その後 太田出版から邦訳が出た。『ペンタゴンの頭脳 世界を動かす軍事科学機関DARPA』(加藤万里子訳)。また、原著の注を邦訳したものが、出版社のウエブサイトに公開されている。

最後に、もう一つ追記。

周知のように、2017年3月に日本学術会議が、軍事研究に関する新たな声明を出した。そこで、拙著での歴史的な考察を踏まえて、その声明について検討した文章「日本学術会議の「2017年声明」を考える:歴史的視点から」を書いた。拙著へのいわば追記である。
ここからダウンロードできるので、参照いただければ幸いである。


2017年7月27日木曜日

『家庭』紙の刊行に込めた思い

月刊紙「家庭」を発刊するにあたり、福山甚之助は次のように述べている(要旨)。

北海道で「地物」と言われる道産品(とりわけ米、酒、醤油、味噌)は「内地物」よりも品質が劣ると考えられ、道民もレッテルだけで「内地物」のほうを好んで購入する傾向がある。しかし今では、開拓の初期とは違って、「地物」の品質も向上し、内地物を凌ぐ場合さえある。にもかかわらず道内で生産された約70万石の大豆のうち約35万石が、醤油や味噌などに加工されることなくそのまま道外に送り出し、逆に内地産の醤油を大量に購入している。これは北海道の産業にとって憂うべきことである。「今後は寧ろ「地物」の方が優越し、他県に移出するやうにならなければならぬ」、そのために「本誌を発刊せんとする」のだ(注1)

家庭社が1930年に刊行した小さな冊子『醤油の話』(縦16cm、70頁あまり、非売品)の第7章「北海道と醤油」にも、同じ趣旨の次のような記述がある。

醤油の原料の一つである大豆は、北海道の気候風土に適した作物であり、品質も満洲産をはるかに凌ぐ。「地力維持の必要上本道農業経営上欠くべからざる作物」でもある。だから今後、大豆の作付を奨励するとともに、収穫された大豆は「加工製造品として道外に移出すべきである」。
同じく醤油の原料である小麦も、農業経営上重要な位置を占めている。ひと頃は銹病(さびびょう。銹菌の寄生によっておきる植物の病気)の発生により収量が減少したが、今では耐病性で品質もよい小麦品種が開発されている。 
したがって醤油味噌の醸造業は、「優秀なる技術を以てせば、今後啻に[=ただに]道内の需要を充し得るのみならず、遠く之を道外にも移出し、国内屈指の醤油醸造地たらしむることは必ずしも困難にあらず」。そのために「進歩改良に努力する」とともに、道産品を卑下する習慣を取り除いていく必要もある。

冊子『醤油の話』は、奥付によれば兄の福山甚三郎が著者で、弟の福山甚之助が発行者(家庭社が発行所)である。だが実際には、少なくとも第7章は弟の福山甚之助が執筆したはずである。「北海道農事試験場に於ては、大正6年(筆者の同場に在職せる当時)以来小麦の耐病性品種の育成に着手し…」という文が第7章中にあるからである。

『醤油の話』の一部。右頁にトモエ醤油の宣伝文がある。
「色よし味よし香りよし、三つトモエの醤油召しませ」
「美人で強い巴御前、美味でよくきくトモエ醤油」

弟の福山甚之助は、1912年7月に北海道帝国大学農学部農学科を卒業するや、北海道農事試験場に職を得る(注2)。そして、退職して1926年から兄の福山商店を手伝うようになるまで、孝橋良直技師が生前に行なっていた小豆に関する研究を取り纏め、また自らも品種改良の研究に取り組んだ(注3)。さらに自らが主査となって小麦銹病抵抗性品種育成の研究にも取り組んだ(注4)

したがって兄の片腕として福山商店を手伝うことは、農学者としての自らの研究成果を事業化することであり、月刊新聞『家庭』や冊子『醤油の話』の刊行は、そのための社会啓蒙活動でもあったと言えよう。


なお、福山甚之助と伊藤誠哉(敗戦後 最初の北大学長)との交遊や、伊藤誠哉が『家庭』紙に連載した文章などについては、また機会を改めて記そう。

---

注1)福山甚之助「家庭 発刊の辞」『家庭』第1号(1926年3月11日)。『善念録』pp.63-66 に再録されている。
注2)福山甚三郎『善念録』福山醸造株式会社、1958年、「序」および p.24.
注3)我孫子孝次氏胸像建設の会(編集)『北海道農業よもやま話』我孫子孝次氏胸像建設の会、1968年、p.94.
注4)我孫子孝次、前掲書、p.7.  福山は、主任・我孫子孝次のもとでその研究に取り組むのと並行して、大島金太郎(北海道帝国大学農学部教授で北海道農事試験場長も兼務していた)に請われ、台湾総督府嘱託を2年間ほど務めてもいる(前掲『善念録』p.1)。そして1914年3月に、甚之助の編述による『世界に於けるバナゝ業』と『伊太利に於けるレモン栽培及其副産物製造業』(後者は芳賀鍬五郎との共著)が台湾総督府民生部殖産局から刊行されている。

2017年7月26日水曜日

家庭社刊の『楡の葉蔭』

福山甚之助は、月刊新聞『家庭』の発行を1931年3月11日号でいったん止めたものの、先に述べたように、その後も不定期で刊行を続けた。

と同時に、それに並行して、一冊の本の刊行計画も進めた。『家庭』の紙面に載った「貴重なる玉稿をそのまゝ埋もれしむることの如何にも口惜しく、出来るならば之を一と纏めにして、一つは寄稿者各位の御懇情に対する記念ともなし、一つは後来「家庭」を偲ぶよすがとも」したいと考えたからである(注1)

その本を、当初は東京の大手出版社から刊行しようと考えたらしい。甚之助は本の原稿を、東京にいる宮部一郎に送っている。

福山甚之助と宮部一郎は、札幌農学校予修科での同期生である。農学校本科に進んでからの専攻は甚之助が農芸化学、宮部が農業経済と違ったので、特に親しいわけではなかった。しかし宮部が1925年に南満洲鉄道を辞めて日本に戻った頃から、甚之助と宮部は昵懇になっていった(注2)

ともあれ宮部は、甚之助から送られてきた原稿を「当時大新聞社の幹部であった某氏」に渡して出版を依頼した。しかしこれは実現しなかった。それどころか某氏は原稿を紛失してしまったらしい(注3)

そこで甚之助は兄の甚三郎が社主となっている「家庭社」すなわち月刊新聞『家庭』の発行元から刊行することにした。

家庭社(福山甚之助の自宅か。『楡の葉蔭』より)
『家庭』の1933年10月14日号に、3頁と4頁の両面(裏表)を使い、「新刊「楡の葉蔭」=予約募集=(但シ前金不要)」と題した広告が載っている。四六版、約450頁、コットン紙、絹表紙、函入りで、2円(送料込)。翌34年3月末に、予約のあった部数だけ発行するという。詳細な目次も、執筆者の紹介とともに示してある。その概要は以下の通りである。
葭のずいから  たけとりの翁
愼獨庵随筆  理堂道人
獨逸ところどころ(附 滞欧随筆)  旅烏
和歌随筆  一郎
思ふまゝ(随筆、小曲、和歌、俳句)  佳子
「比志保」餘滴  華堂
執筆者の、たけとりの翁とは伊藤誠哉(北海道帝国大学農学部教授)、理堂道人とは関塲不二彦(北海道医師会会長)、旅烏とは成田秀三(もと札幌農学校予科教授、いま富山高等学校教授)、一郎とは有賀一郎(1917年北大農学部卒業、いま米星煙草株式会社の重鎮。米星煙草株式会社は今日の双日ジーエムシー株式会社の前身)、佳子とは「故孝橋医学博士の夫人」、華堂とは福山甚之助のことである(注4)

『楡の葉蔭』の奥付
これらの執筆陣を見ると、月刊新聞『家庭』は北海道帝国大学に所縁のある執筆陣に支えられていたことがわかる(注5)

『楡の葉蔭 第一巻』は、予定から半年ほど遅れ、1934年11月に発行された。編輯兼発行人は福山甚之助、発行所は家庭社である。定価は2円80銭(送料12銭)と、いくぶん値上がりしているが、頁数などは予告通りである(注6)

「第一巻」となっているのは、予定の450頁に総ての記事を収めることができず、有賀一郎、孝橋佳子、華堂(福山甚之助)の記事は「次回に続刊の予定」としたからである(注7)。とはいえ、第二巻が実際に出た形跡はない。

つづく

---

注1)楡の葉蔭「序」; 『家庭』第76号の広告にも同じような趣旨が書かれている。
注2)福山甚三郎『善念録』福山醸造株式会社、1958年、pp.60-61. なお宮部一郎は、植物学者 宮部金吾の養子(娘婿)である。
注3)同上書、p.61.
注4)「故孝橋医学博士」が誰かは不明である。また比志保(ひしほ、ひしお)とは、醬(ひしお)すなわち今日の醤油にあたる昔の調味料である。
注5)逆に甚之助による母校北海道大学への貢献も忘れてはならない。いずれも戦後のことであるが、島松にクラーク博士記念碑の建立、クラーク奨学会や宮部奨学会の設立、北海道大学連合同窓会の設立に発起人として参画したほか、北海道大学創基80周年記念クラーク会館の建設にあたっては、建設期成会の理事として学長杉野目晴貞をサポートした。(前掲『善念録』p.2)
注6)ただし、函入りだったかどうかは未確認。
注7)福山甚之助『楡の葉蔭』家庭社、1934年、「序」

2017年7月25日火曜日

札幌で出ていた『家庭』という新聞

かつて札幌に、『家庭』という月刊の“新聞”があった。1926年3月11日に第1号が出て、1931年3月11日号で刊行を終える。

『家庭』紙の題号部

ただし、その後も不定期に刊行されたようである。そのころの同紙をみると、サイズはタブロイド判で、いずれも全6頁である(注1)。定価は、第84号(1934年6月)をみると、郵税込みで1部3銭、1年36銭である。しかし以下で述べるように、実際は無料で配付されていた。体裁からしても、今日のフリーペーパーのようなものだったと言えよう。編集兼発行人は福山甚之助である。

彼が『家庭』の創刊を思い立ったのは1926年1月のことである。1年半ほど前の1924年8月に愛児を亡くし、翌年の11月には母も亡くして、甚之助は「全くこの世の希望の総てを失ったかの如く、極めて憂鬱にしかも感傷的となり、当時残れる唯一人の愛児の外にはこの世に如何なる欲望も執着もないかの如き感じ」がしていた。甚之助のこうした「境遇に同情して」、兄の甚三郎が『家庭』創刊のための資金を出してくれたのだという(注2)

その兄に言わせれば、「健康意に任せず、徒に焦慮煩悶」する弟の「切なる願望もだし難く、尠からざる危惧の念に駆られつゝも、その発行を認容し」たのだった(注3)

兄の福山甚三郎は、「トモエ」の商標で醤油と味噌を製造・販売する福山商店の社長であった。その甚三郎が、同社の取締役である弟の甚之助のために会社の資金を回して家庭社を設立し、『家庭』の創刊を実現させたのである。

しかしだからといって、『家庭』が福山商店のPR誌だったというわけではない。甚之助が言うに、「今少しトモエ醤油の広告本位に編集しては」と周りから忠告され、自分でもそう思わないわけでもなかったが、「性来、所謂ソロバンに疎い私としては、夫が如何にも気分にそぐはぬ感じがした為に、いつもこれを実現することが出来なかった」。その結果、「広告ともつかず、道楽とも見ゆる」ものに終始したという(注4)

購読料もとらなかった。兄から資金援助を受けるにあたり、政治色をもたせないこと、誹謗的記事を載せないことに加え、「金品を強請せざること」という条件がついたからである。また、読者が自ら希望して購入したいと思うほどに価値ある読み物を提供できる自信がなく、購読料を取れば押し売りになってしまうと思ったからだとも言う(注5)

『家庭』紙は、1931年3月11日号で刊行を終えた。甚之助の健康が次第に回復し、またトモエ醤油の苗穂工場が完成したのに伴って、福山商店の仕事が多忙になってきたことが理由の一つである。しかし最大の理由は、日本全体を襲った不況のもと、福山商店の事業費を削減する必要が出てきたことだった(注6)

1930年1月に甚之助は、社員に向けて次のように述べている。

諸君も既に周知の如く世は挙げて不況のドン底に陥り、到る所事業の縮少と破綻とが彌が上にも失業者を続出せしめ、今や其の数三十万人を突破せりと伝へらる。…生産過剰と経営組織の過渡期にある吾が醤油界の如きは、最近年を逐ひ月を重ぬるに従ひ刻々と経営難に陥り、中には涙を呑んで休縮業せんとするものすらあるの状態にある。従つて今後数年間には相当斯界に波瀾を生ずるならんと予想せらるゝ今日、吾等の理想として辿りつゝある前途に対しても亦幾多難関の重畳たるものある事を覚悟しなければならぬ(注7)

こうした状況のなかでは、「広告ともつかず、道楽とも見ゆる」新聞の発行を続けることは、社主の兄に対しても、また従業員に対しても顔向けが出来ないと甚之助は判断したのである。

つづく

---

注1)1933年8月の号が第75号であることからわかるように、1931年3月までも定期に(=毎月)刊行されていたわけではないようだ。
注2)福山甚三郎『善念録』福山醸造株式会社、1958年、p.68.
注3)福山甚之助『楡の葉蔭』家庭社、1934年、「序」
注4)前掲『善念録』p.68. 第84号には、「お醤油使ふなら」という3コマ漫画によるトモエ醤油の宣伝が載っている。また定価の下に「広告料 1行50銭 1段20円」と記され、他所からの広告は受け付ける形になっている。
注5)前掲『善念録』pp.68-69.
注6)同上、p.69.
注7)トモエ醤油勤続者表彰式での挨拶。家庭社主幹 福山甚之助の「堅忍協力 以て稀に見る事業の難局に処せん」と題した挨拶として、前掲『善念録』に収録されている。